2007/05/20

リアルのためのフィクション展

東京国立近代美術館に行ってきた

場所はココ↓


東京国立近代美術館

本展で紹介する4人のアーティスト―イケムラレイコ、ソフィ・カル、やなぎみわ、塩田千春―は、扱う素材も、「リアル」なものに迫ろうとするアプローチの仕方も、さまざまですが、彼女たちはみな、ある種のフィクション(虚構)をしつらえて、それを通して逆説的に、私たちに「リアル」なものの扉を開く鍵を示しているようにみえます。リアルのためのフィクション。彼女たちが静かにあるいは饒舌に語りかける物語は、あなたの「リアル」を感じる力を揺り動かすことでしょう。

にある通り、4人の現代アーティストの展示

1時間ぐらいこの展示を見ていたが、45分はやなぎみわに使われた



この作品を見たときのメモ
もう一つの展示作品とは、違った意味で対比を成している作品。光と闇、ハイトーンの赤と暗い赤、希望と絶望。左の作品では花、右の作品では女がどのような意図でそれぞれ陳列されているのかは分からないが、ダークな花とポップな女の比較には、なにやらパワーを感じる。物体として記号としての女が、この写真においてどのような役割をはたしているのだろうか、画一的で均質的な女たちが、並べられ、捨てられる。消費社会の闇を一方では明るく、一方では暗く暗示しているような作品だ。

また、彼女はもう1つ、作品を出展していた
そのメモ
写真と写真の間までdesignされているような印象を受ける。完全な補色関係ではないが、赤(くすんだ紫のような赤)と、青(緑と混じってはいるが澄んだ青)のコントラストの中に、上手く白が配置され生かされている。女の白。ライトの白。そして、写真の間にある白い壁。そこまで考えて撮られているとすると恐ろしい。サークルがモーチーフにされているように感じるのは気のせいだろうか?

とても妖艶なチカラをもった写真で、完全に時間を忘れて没頭させられた
おススメ

次にイケムラレイコの作品



私は基本的には、タイトルを作品よりも先に見ることはしない
タイトルをつけるところまでが作品作りじゃないか?と怒られてしまいそうだが、まずは、無心で作品と向き合い、あれこれ考え、最後にタイトルを見るという流れが基本である

彼女の作品を見てのメモ
女の子が菜の花の上で寝ているのだろうか?それとも、人形が黄色のシーツの上に捨てられているのだろうか?いや、見方によっては老婆にすら見える。ん?もしかして、この被写体は腕が途中でなくなっている?爪のようにも見えるが切断されているようにも見える。何故うつ伏せなのだろうか?捨てられて泣いているのだろうか?そもそも、これはトルソーかもしれない?想像を掻き立てるキーワードは、黒い顔だろうか。その見えない顔を補完しようと、脳が活発になり思いを馳せるのだろう。

本当に色々なことを考えさせられた
そして改めて、芸術作品との対峙においてこの思いを馳せるという時間が私は一番好きだということを感じる
芸術と触れ合うということは、まさにこの瞬間のことを言うのではないだろうか?

一体どんなタイトルがこの作品につけられているのかと、心を弾ませて見てみると、「横たわる少女」こう記してあった

この作品の鑑賞に関しては、持論に分があるように思う
先にタイトルを見てしまったら、メモにあったような考えは出てこなかっただろう


4人のうち2人が写真を表現に使っている点は面白い
というのも、私は写真における社会の切り取りが、リアルに限りなく近い(ように見える)虚構であると感じているからだ

欲しい絵になるまで、何枚も撮っては消してを繰り返すことを可能にしたデジカメ
撮り終わった写真の構図の再構成を、切り貼りによって可能にするフォトショップ

もはやカメラの持つ真実味というものは、テクノロジーの進歩によって、大きく揺らいでいる
芸能人の男女がたまたま親しく喋ってる写真を、人々は熱愛発覚だの最高のカップルだのはやし立てる

写真に対する信憑性は、カメラの進歩に置いてけぼりをくい、作り込まれた情報を人々はいつまでも真実だと信じている

フィクションによる(によって提供される)リアルだ

何でも作りこめる今だからこそ、私たちは選球眼を鍛えなくてはいけない
フィクションに踊らされるのではなく、フィクションによって味付けされたリアルを楽しく生きよう

フィクション>リアルからフィクション<リアルへ

情報の渦はこれからも肥大化する一方であり、この2007年という時代にこの展示を行う意味というものの重要性は大きい

「リアルのためのフィクション」展